「遠友夜学校」に学ぶ”遠友再興塾”
新渡戸稲造夫妻が創設した遠友学校の精神を学ぶ

プロフィール

Author:遠友再興塾
札幌の誇り、教育の基、文化の香り、遠友夜学校の再興を目指す”遠友再興塾”
<遠友再興塾・事務局>
〒060-0053札幌市中央区南3条東3丁目マルキン本社ビル5F
〇連絡先
Fax:011-894-5530
mail:inazo@utopia.ocn.ne.jp 
📱:090-2699-4392
担当:木村良三(イナゾーアーキテクツ)



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山陰から-4

教育の原点をみる場所 
 記念室は、夜学校当初の教室模型のなかに、小さな机と椅子がおかれ、正面の壁には、新渡戸博士の「学問与里実行」という額が掲げられていた。校長先生として最後の札幌訪問になった昭和6年5月18日、「また20年後には来るからね」という言葉を、溢れる涙で聴いた全校生徒のために、この直後、この場所で、新渡戸校長が書いたものである。その歴史の記憶を、札幌市の歴史から切り取るというのだろうか。
 記念室は、当時の札幌市の職員が、勤労青少年ホームという枠の中で、与えられた小さな空間に、遠友魂をぎりぎりまで表出した美しい教室だった。
  私もよくこの教室に入り、椅子に腰かけて、ここに集まったさまざまな遠友のざわめきを、沁みるような想いで聴いた。なぜ表玄関に、「札幌遠友夜学校」と、堂々と看板を掲げないのかと、それが口惜しかった。
(つづく)
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山陰から-3

札幌遠友夜学校
 この学校は、明治27年に、新渡戸稲造博士夫妻が貧者の一灯ともいえる浄財で購入した古い家で始まった。当時の生徒募集にあるように、貧富、男女、老若を問わず、勉強したい人が、ここに集まった。授業料はいらない。札幌農学校の教師・学生が、無償で教えた。有島武郎もその一人である。
 半被を着たまま、仕事先から駆けつける少年たちを教えるなかで、学生たちは時代と、社会の厳しい現実を学び襟をただした。
 やがて、次々に学生が召集され、昭和19年に閉校を余儀なくされるまでの50年の間、卒業した生徒は1千百人、教えた学生たちは数百人に及ぶ。彼らは、遠友魂をもった人材として、国内各地で活動を広げた。
 その後20年近く、跡地を固く守ってきた最後の校長で、財団法人夜学校の半沢洵代表に、原田札幌市長は青少年のための施設をつくることを約束し、跡地の譲渡を受けた。こうして、昭和39年に中央勤労青少年ホームが建ち、その中に「札幌遠友夜学校記念室」が設置された。
資料館
 半沢代表の言葉が残っている。
 「・・・この度札幌市が勤労青少年ホームを作るために敷地を求めていることを聞き、これこそ遠友夜学校の精神を引きついでもらえるとものと考え、これを寄付することになりました。今それが完成し、更にその中には札幌遠友夜学校の精神を遺し伝える新渡戸先生記念室が設けられ、屋外には新渡戸先生が非常に愛された児童の遊園ができました。これで、この事業が永久に残されることになりましたことは、多年この事業に責任を持ってきたものとして、よろこびにたえません」
 “永久に残された”、という言葉が心を刺す。
(つづく)

山陰から-2

創成橋のあたり
 今に話を戻すと、創成橋あたりの変化にも首をかしげた。開拓使が東西をつなぐために創った橋である。
創成川の西側にあるビルの下に、小さな三角州があった。毎朝老人が一人、擬宝珠の橋柱を黙々と磨いて
いた。声をかけるでもなく、私は傍を通り勤め先に急いだものだった。
そうせいはし
橋柱の横には、もう一つ、不思議な形の黒御影石の碑が立っていた。「他日五洲第一の都」を志し、石狩大府
建設に心血を注いだ開拓使判官島義勇は、この場所を開発の起点においたという。台座に、「札幌建設の地」と、当時の原田札幌市長の揮毫があった。
 また、創成橋を造ったときの車止めの石が、息もたえだえに、開拓使の仕事を語っていた。道路造成の基点という説明盤もあった記憶がある。ここから札幌が創まったのか、と、深い感慨をもった。
札幌建設の碑
 それが今は、流れをこえて、昔交番があった南の一角に移っている。基点が動くの?である。点ではない、
面だと言われるかもしれない。しかし、川の左右では違いは大きいと、素人には思えるのだが。
 おまけに創成川の父祖、大友掘を堀削した大友亀太郎の銅像を、ここに移し同居させている。傍に創成橋の
歴史を語るガラス版の建物が新しい。このために、亀太郎も、里標も、車止めも、強制移転させられたのだろうか。
 大友亀太郎・創成川
 亀太郎が大友掘を開削した慶応2年は、創成橋造成や道路づくりが始まった時代に先んずる。亀太郎像は、
もともと彼の役宅が移された現在の北一条橋の袂にあった。雑草の生えた辺りの川には、時おり鴨の一家が
遊んでいた。いつだったか、亀太郎の手にリンゴがのっていた。言うまでもなく、創成橋は開拓使の時代の造成である。
創成橋の改築で、いろいろ考えたからだろうが、みんなひとからげにして、それぞれの歴史をどう想えというのだろうか。
信じられないこと
 そして南4条東4丁目にあった”札幌遠友夜学校“の跡地は、更地になっていた。「学問余里実行」と新渡戸博士が書いた扁額がある記念室は消えて、新渡戸博士夫妻の顕彰碑だけが、雑草の更地を見つめている。
札幌の人々はどう受け止めているのだろうか。2年前に、鳥取で状況を聞いたときは、もじどおり足が震えた。
 学問より実行  夜学校跡地
つづく

山陰から-1

ある季刊誌に連載の記事を著者に当ブログへの転載の承諾を得、掲載いたします。
-山陰から49-
再見
 私は10年あまり札幌を離れて、鳥取で暮らした。札幌に戻りますとご報告をした教育大の村山元学長から、
先生の「人間教育塾」で話をするように言われた。鳥取から見た札幌というようなテーマでお話した時、
私は鳥取の象徴は霊山大山(ダイセン)であり、札幌は人だと思う、として、道産子賛歌を語った。
鳥取大山
 1か月札幌にいて、私は戸惑いながらまた鳥取に帰った。それを明確にできないまま、村山先生に直感的な
札幌観を、「札幌再見」としてメールで送らせていただいた。
 その昔「好きです サッポロ」という言葉を、誰もが明るく口にしたが、今も札幌以上にすばらしい街はないと思っている。しかし2年前の、札幌への戸惑いは、今もそれほど変ってはいない。
村山先生へ 「札幌再見」                         
 私が生まれたのは京都。しかし故郷
 札幌市
 10年ぶりで帰郷してみると、あちこちで私の札幌が消えていた。まず天を突く高層のマンションが、
札幌を温かく囲んでいた山の眺望を切っている。外国を例にあげたくないが、札幌の姉妹都市・アメリカ・
ポートランド市は、青少年の研修先として、日本各地が選ぶ夢の理想都市になっている。
 その先駆は札幌だった。
 車窓から外を見ていた当時の札幌市長、板垣さんが呟いた。「いつ来ても落ち着いた良いまちだなあ。
札幌の青少年たちを、夏、ここで研修させたい」
 ポートランド
 後に運輸大臣になったゴールドシュミット市長は、まだ30代の青年だったが、これに応じ、両市の間で青少年婦人交流が始まった。
 この町が、“いいまち”である第一の要素は、もちろん人だが、次には山と川の自然に包まれた静かな街の
佇まいである。住む人の町への愛情が、誰の心にも残る美しい町に育てた。童話の中にあるような町である。
 だいぶ昔の話である。このまちに、ファースト・ナショナルバンクという40階建ての銀行が建った時、
その祝賀の席で、当時のマッコール知事があいさつに立つ。開口一番、これを最後にしなければいけない。
この町は、どこにいても、山からの語りかけが聞こえるのが特色なのだから、と話した。
 それが市民全体の無言の条例になり、古い家並みを保存し、低い家並みを心がけることにつながり、
今の美が生まれた。
 ポートランド公園
 今回、札幌に帰った翌日、大通りを歩いて、ドーンと地響きのような音を聞いた。見ると、大きな構造物に 
SAPPORO CITY JAZとあった。べつにジャズを否定するのではないが、最も札幌を象徴する落ち着いた
大通公園で、こんな形でやるべきものなのだろうか。
大道公園
 かつて大通公園は、苗木一本を記念植樹しようとしても、市の緑化推進部が、両腕を開いて立ちはだかった。
彼らは、三々五々、芝生に足を延ばして寛ぐ市民の守り神だった。しかし土の歩道が舗装された頃から、
あの公園は変わり始めたような気がする。落ち葉には、やはり土が一番似合う。鳩のフンも舗装の上では汚かった。(杉岡昭子:鳥取県大山町在住)
つづく



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