「遠友夜学校」に学ぶ”遠友再興塾”
新渡戸稲造夫妻が創設した遠友学校の精神を学ぶ

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Author:遠友再興塾
札幌の誇り、教育の基、文化の香り、遠友夜学校の再興を目指す”遠友再興塾”
<遠友再興塾・事務局>
〒060-0053札幌市中央区南3条東3丁目マルキン本社ビル5F
〇連絡先
Fax:011-894-5530
mail:inazo@utopia.ocn.ne.jp 
📱:090-2699-4392
担当:木村良三(イナゾーアーキテクツ)



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新渡戸稲造の足跡

皆様
おはようございます。
ここ東京もやっと暖かい日が続き、もうコートは不要となり、そろそろ半袖を用意しなければと思うくらいです。
先週の札幌は10度以下か寒かったですが、報道によると「桜が開花」とあり、北海道にも確実に春がきていると思います。

さて、昨日25日には早稲田大学オープンカレッジ(中野)の公開講座「がんと生きる哲学」第2回を聞いてきました。順天堂大学の樋野先生の「がん哲学」(エディテクス社)の朗読と受講生の質問に対する先生の解説を聞く、有意義な90分を過ごしてきました。
先生の話の中に、新渡戸稲造や内村鑑三、吉田富三、南原繁等、先人の話が多く出てきました。「何を話したか」より「誰が話したか」が重要に思えるところです。
先人に学ぶところは実に多くあり、現代でも十分に通じるところがあります。

中野駅の北側には、きれいな「中野四季の森公園」が整備され、早稲田大学をはじめ、明大、平成帝京大学が進出し、且つキリンビールの大きなビルが建ち、以前とは様変わりです。
昨日は上記の公開講座のあと、中野駅の南側をぶらりと歩いていたら、臨床検査学科のある「新渡戸文化短期大学」にぶつかりました。1927年に国際連盟事務次長を退任し帰国すると同時に、日本における女子教育の改善を進めることを決意し、同じ考えの愛弟子、森田厚吉(札幌農学校出身)を助ける形で初代校長に就任したと学校案内にありました。
この新渡戸文化短期大学は、中野区の別の所に生活学科があり、そこには幼稚園から短大までの新渡戸学園があります。

次に向かったのが、「中野総合病院」です。ここは新渡戸稲造と生協創設の賀川豊彦等が設立した日本初の医療利用組合です。

というわけで、先週の札幌につづき、新渡戸稲造を巡るミニ街巡りをしてきました。
中野も新渡戸稲造ゆかりの足跡が多いのに驚いたところです。

本日はこの辺で失礼します。

27年4月26日 東京 岡村 實

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遠友夜学校について思うこと  

豊平橋のあたりは、物語が多い。渡し舟だった時代には、二人の船頭さんが豊平川を隔てて住んでいた。その記念碑が、橋を挟んで建つ。橋自体も、洪水で何十回も建て替えられた作品である。

この地域に、明治27年(1894)、新渡戸稲造博士は、遠友夜学校を作った。メリー夫人の実家で、孤児から妹同様に育った女性が、夫人に遺した浄財で、古い家屋が遠友夜学校に変った。

創立百年記念誌として出版された「思い出の遠友夜学校」で、高倉新一郎先生が書いておられる。
「付近の子供を集めて、一週に2回、暗いランプの下に、破れ畳に坐って、生徒の希望する学科を教える寺小屋式のものだった。教師は、主として、博士の教え子というよりは直接家庭において面倒を見ていた札幌農学校の生徒並びに信者の有志であった」

生徒募集のチラシには、
幾ら年をとっていても差し支えありません
何時でも入れます月謝は要りません
学用品はあげます
先生は諸君の友達です、など、とある。
教える学生たちは、無報酬であった。

職工や店員など、貧しい境遇の人々が、昼間の仕事を終えて、仕事着のままで集まってきた。この本には、半被姿の少年がまじる緊張した卒業式の写真がある。何時のまにか、日本は漫画まがいの成人式や卒業式が現われるようになったのだろう。

疲れているだろう、眠かろう。しかし学ぼうとする強い意志と眼差しに、学生たちも自らの襟を正し、若い情熱をぶっつけた。学生にとっても、教室だった。両者にとって、それぞれが人生の進路を決めた重要な学校だった。

新渡戸博士は、明治30年に病気で札幌を離れるが、カナダで客死するまで遠友夜学校の校長だった。
太平洋に架ける橋作りをしている博士は、例え近くで会えなくても、夜学校に学ぶ生徒たちの理想であり、心の柱であったに違いない。
生徒と先生が信頼しあい、火花が散る授業、将来を決めていくような教育力が、遠友夜学校である。また学校の設立の事情から始まって、授業にいたるまでの無償の奉仕活動は、札幌のボランテイア活動の原点と考えてよい。

家が近いこともあって、遠友夜学校の小さな机と椅子が並ぶ教室に入って、私は往時を偲ぶようになった。そうすると次第に、遠友夜学校の精神を守ろうと努力している人との出会いが増えた。

ある日、杉岡さんに会いたいという人を案内したから、降りてきて下さい、と、電話があった。バラの花束を持って、立っている青年は、半澤君であった。電話の主は古屋さん、札幌市での同僚である。奥さんが半澤君の妹であることも、この時知った。両方とも教え子だったが、その半澤兄妹が、かの有名な納豆博士・遠友夜学校校長の半沢洵先生の孫とは、当時は全く知らなかった。半澤先生は、有島武郎と同期である。

木下英俊さんは、小樽で鋳物づくりに生涯をかけた。80歳を超えて、少し体調を崩されているが、遠友夜学校での半年が、その後の自分を育てたという。校風どおり、誠実な人柄で、堅実な仕事をされた。小樽の町には、街灯や記念碑など、木下さんの作品が少なくない。

山崎健作さんの家は、夜学校から百米くらいであろうか。家は鋸目立ての仕事をしていた。半澤校長のときの生徒である。戦後、青少年のために「青空会」をつくって、様々な奉仕活動を展開している。私も、山崎さんの遠友夜学校の精神を継ごうという志に共鳴して、いろいろなプログラムを共同で実施した。

会の名前を、遠友塾と命名したいのですが、と、北大の山本玉樹先生にご意見を伺ったことがある。先生は首をかしげた。それだけで、先生の遠友夜学校への深い思いが伝わり、命名を断念した。
遠友夜学校の深い意味を考えると、私は勤労青少年ホームではなく、「札幌遠友夜学校」という名前を堂々と表に出してほしいと思う。事情があるのだろうが、札幌遠友夜学校は、奉仕とは何か、教育力とは何か、について、考えさせる。思い出ではなく、今の時代だからこそ、意味がある。そして何よりも、創世期の札幌の美しさを伝える。「魂の灯台」である。

羽田のモノレールの終着点は「貿易センター」。ニューヨークの世界貿易センターに世界の眼が凝縮したが、世界の大都市には、それぞれWTCがおかれている。
恒例の国際会議に出ると、東京貿易センターの山田忠義理事長の周りには、いつも人が集まった。
“Mr.Yamada、how are you?”
山田さんは、WTCの創設者の一人であった。
当時90歳に近かったと思う。戦前に留学されていて、英語は本国人と変わらない。札幌がWTCに加盟するときには、山田さんが大変骨を折ってくださっている。
山田さんは、私の顔を見ると、新渡戸博士夫妻に大変可愛がられた学生時代の話しを切り出すのだが、残念なことにいつも誰かに遮られた。
来札されたとき遠友夜学校にご案内した。山田さんは、玄関にある新渡戸夫妻の顕彰碑に手を触れて涙して喜ばれた。亡くなられたのはその後すぐだった。

有島武郎が遠友夜学校の代表
有島武郎は、新渡戸博士が札幌を離れる前の1年間、博士の家に寄寓している。明治33年頃から遠友夜学校の教師になり、42年に代表に就任した。これより先の明治31年には、校歌を作詞しているから、夜学校との関係は、札幌に暮らした14年にそのまま重なる。

明治42年12月に入学した小寺アキさんを、山本玉樹先生が取材している。
「私、お習字なんかしたことないですからね。有島先生が手をとって、筆をはさんでこうしなさいって。一番最初に習ったのが有島先生です」
アキさんは、こうも語る。
先生は一日ごとにかわる。みんな北大の生徒だと、いまは分るが、当時は有島先生もその一人と思っていた。
「だけど有島先生は毎日いらしていましたよ。12月ですから寒いでしょう。こんなとき、私たち、教えてくださったのかなと、思ってね。申し訳なかったな」
有島を知る人たちは、彼ほど美しい心をもてる人はこの世にない、玲瓏珠のごとき人格、と口をそろえたという。(「思い出の遠友夜学校夜学校」)

東京の有島に親しかった鳥取出身の作家、橋浦泰雄も、彼は生真面目の一点張りで、純真そのものの人柄だった、と、書いている。「私は駄生して80近くなったが、これまで父母を除いて有島のような純真一途な人にまだ出会ったことがない」(五塵録)
その有島が、上京後、僅か9年で亡くなったのであるから、遠友夜学校の生徒たちは、どんなに驚き、悲しく思ったことだろう。

有島と鳥取
鳥取砂丘に、有島の歌碑がある。
  浜坂の遠き砂丘の中にしてさびしきわれを見いでつるかも
砂丘の歌は、有島の最後の旅になった鳥取での講演の帰途に詠まれた。札幌を離れてからは、作家活動に専念して、講演を断わっていた有島が、なぜか山陰に向かう。秋田雨雀も一緒だった。
米子での講演のテーマは、狩太農場開放についでであった。農場は、そこに働く農民のものでなくてはならない、というのが、開放の理念であった。しかし土地の私有を認めることはせず、相互扶助による、農民たちの共有地としようと考えた。これは甘い夢だった。開放して1年も経たないうちに、速くも崩壊しつつあることは、自分にとって衝撃だった、と、有島は切切と語った。

道産子は札幌を愛し、若い人たちを育てた有島を忘れない。3人のいたいけな子供を遺した有島を責めもせず、没後40年を記念した大通りの記念碑は、「小さき者へ」とある。

                     
杉岡昭子(1990・2月 「山陰から」) 

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「友人からー遠友夜学校を世界遺産へ」

あなたに中央勤労青少年ホーム内の遠友夜学校に案内された時は、今日のように少し雨交じりの日でした。 訪れていた人達も一組か二組でしたが、私にとっては却って煩くなくじっくりとその場の空気も味わう事が出来て良かったです。

私自身も「夜学校」出身です。大学不合格で千葉の田舎から東京に出て、保険に受けていた国家公務員が受かっていたので総理府の公正取引委員会に勤め始めましたところ、 同僚が夕方5時ごろになると居なくなるので不思議に思い聞いてみたところ、皆法政や明治大学の夜間に通っていると言うのです。田舎者で何も知らない私にとって夜大学があると言うのはびっくりでした。
同僚に一年遅れて 中央大学法学部政治学科の夜間部に入ったのは良いものの、まともに通ったのは1年 のみでした。 と言うのも当時は学生運動が激しく、中央大学も学生会館の問題でいつ行っても大学はバリケードが張られ休講でした。 勤め先の上司もそういう状況をよく知っているので、「今日は学校無いんだろう」と言う事でそれからは毎日残業でした。

従って私は大学2年-4年のテキストもありませんでした。ただ学期末になると大学から分厚い封筒が送られて来て、 その中には各学科の問題が各10問ぐらいずつ入っていました。こちらはその中の適当なものを4-5題選び、 それに合いそうな回答を見つけに図書館に行き、該当箇所をまる写しして提出、それで4年間が過ぎました。 それでも大学は授業料(?)を取ったのですから酷いものです。
既に4年を終えていた時は勤めていましたので、特に卒業証書はいらなかったのですが、1年後大学に行きましたら 卒業証書と成績証明書が揃っていたので貰ってきました。授業料の代わりなのでしょう。
20年後卒業式の案内があり、その時学生運動が激しく卒業式も無かったのかと初めて知りました。

そんな訳で私は大学で勉強は出来ませんでしたが、「夜学校」と言うのは特別の響きがあり、20歳当時の記憶が蘇ってきました。と同時にこの遠友夜学校に通っていた生徒達はもっと真剣で、日本の将来を考えていたのだと思いました。

話しが自分の事にずれてしまいましたが、戦後はGHQにより日本の歴史、伝統、文化は極力消される方向にコントロールされ、 そういう事を言う事すら何か悪いことでもしているような空気がこの70年間蔓延していたと思います。そういう雰囲気に逆らわない方が無難と判断したのか、或いは過去のものは「遠友夜学校」のように我々の心から消してはいけないものまで簡単に取り壊されています。

日本には世界から評価される素晴らしい文化を持っていることを我々は余り認識していません。全てが経済一辺倒で、「腹の足し」より「心の足し」になるものを大事にしてこなかった。
日本の歴史、文化、伝統 が悪くて劣っていると教えられてきた人達が 今社会の中枢に位置し、我々を含めてきちんと日本文化を教えてこなかったところに責任があります。それがために回り回って今の青少年が 自分に自信を持てない不安定な状況になっている。

この前お伝えしたかも知れませんが、塙保己一の生まれた地元の高校で話す機会がありましたが、そこの高校生でヘレンケラーが 心の師と尊敬する保己一を知っている生徒がほんの2-3人というのにはショックを 受けました。先生もそうだし地元の大人も世界遺産として残しても良い位の「群書類従」を纏めた先達を知らない、が故に教えられないという事に考えさせられました。

日本人は自然との共存共栄を大事にし、百物に魂があるという認識は誰に教えられなくても遺伝子の中に入っている筈です。しかし実際にそのような歴史的な遺物や建物はその土地の精霊も含めてその場に行かないと本当にその魂と「共感共鳴」することは出来ないと思います。
形あるもの、時には目に見えないものまで含めて聖霊がそこに存在しています。若い子供達も古い歴史を知らなくてもそこに行けば自然とその霊を感じ、あたかもそこからパワーを得るようにして熱い志を得るのではないかと思います。
そういう意味ではパワースポットです。そこに立ち、 その物に触れて身体の五感を通じて感動を得ないと本物の強い熱い志は生まれてこないのではないかと思います。

エジプトのピラミッドの傍に立った時、またラムセス2世の石像が見つかったテルバスタの町に行った時、そこで吸う空気は3000年前のラムセス王が吸ったのと同じかもしれない、またピラミッドの傍らの石畳はツタンカメーン王が踏んだ石畳かもしれない、そう思うだけで3000年前にその場にいた訳ではないが、何か懐かしい気持ちにもなりました。
ラムスⅡ世大神殿 Tツタンカーメン

ナポレオンがエジプト遠征でのピラミッドの戦いの際に、「兵士諸君、このピラミッドの上から、4000年の歴史が君たちを見下ろしている」と呼びかけたという話しは有名ですが、兵士達もそこに霊魂を感じるから何時もと違う力が出るのでしょう。 そのピラミッドを別の場所で写真や模型で示したところで本物から感じて出てくるエネルギーは得られないでしょう。
ピラミッド ナポレオン

そういう意味でもあなたが「遠友夜学校は、私は単なる資料ではないと、思います。魂の灯台といわれる魂が凝縮した所です。」と言われるのは誠にもっともな話です。
遠友夜学校は「武士道」で世界に知られた新渡戸稲造の魂が入っています。新渡戸稲造は現在世界文化遺産を所掌するユネスコの生みの親です。この際この遠友夜学校を世界文化遺産に申請する位の意気込みが地元にあって良いのではと思ってしまいます。

衣はやがて破るべし
えひぬる程もつかの間よ
朽ちせて止まじ家倉も
唯我心かはらめや
アー 是れ 是れ 是れ
是こそ楽しき極みなれ

夜学校校歌の第9番ですが、こういう気持ち、解るような気がします。

ところでロンドンではピカデリーストリートの隣のJermyn Street76番にアパートを見つけましたが、その通りの87番は1642年から1727年までニュートンが住んでいたところで、その様な歴史的な建物にはきちんとした統一された表示(プラ―ク)がされています。下記のYOUTUBEを見て下さい。

YOUTUBE

この様に彼らは歴史的な建物等きちんと表示し守っています。

ドイツも戦争でドレスデンなど街が空襲で大きく破壊されましたが、戦前の写真を元に、また散らばっている元の煉瓦を寄せ集め 写真の通りの元どうりの町並みを復活させています。100年や200年前に死んだ人が生き返っても道に迷うことはないでしょう。
聖母教会廃墟 聖母教会
この様に彼らは伝統や文化を大切にしています。

縄文文化を始め日本の歴史は世界でも長い国と思っていますが、戦後、戦前のものが全て悪のようにとらえられ、歴史まで消滅されていますので、実際は世界で一番歴史の浅い、戦後の僅か70年の歴史しかない国なのかもしれません。
そろそろ健忘症から立ち直らないとそのまま痛みを感じること無く永眠する事になりかねません。


中村 三樹男(在カイロ)より  国際協力機構
[続きを読む]

遠友夜会塾市民カレッジ第二回受講纏め(26/10/28)

<テーマ>教育者としての新渡戸稲造(講 師)水崎  呈 氏
☆エピソード
廣池千九朗
大分県下毛郡鶴居村出身(現、中津市)福沢諭吉も同じ、昭和3年『道徳科学の論文』を完成、脱稿した大正15年8月17日を【モラロジ―研究所】設立記念日としている。
昭和6年9月大阪毎日新聞社講堂で「新科学モラロジ―および最高道徳と大阪の産業界および経済界の立て直し」の演題で講演をしている。当時大阪毎日新聞社顧問の新渡戸が「廣池先生の研究の世界的意義」紹介講演をしている。
時代背景は前年浜口首相が襲撃されており、この9月に満州事変が起きている。講演で今の状況は思想・宗教・学問・経済・経済的階級と混乱の状態であること。これらを理論的、学術的に説明しているは国内的にも海外的に対して一つの光明と賛意をしている。また『・・・、最高の道徳の見地から見たならば、階級の闘争なんてものは、馬鹿らしくて、できるものではないように思われるのである。』とマルクスを批判している。

吉屋信子
女性を消費者とする出版・マスコミの隆盛に先鞭をつけた作家。女学校の下級生時代新渡戸の講演での感動と時が経て、実業の日本社講演会で同じ講演者として登壇し再び感動したことを記述している。講師は「教育とはすべての人々との関わりの中で影響し合うものである。」と、まさしくその通りであります。

松隅俊子
東京女子大予科生~東京女子大寮監時代の「二つの思い出」はいづれも『・・・、先生は気付かれたことは直ぐに実行されている。しかも極く自然あたりまえのことをしているような、水が低きに流れてゆくような自然さで行われている。その行為の結果はいつも相手を生かす、育てる、全く慈愛の人格であった。』まさしく“学問より実行”である。

☆女子教育・女子大学
遺愛女学校
明治7年(1864)MCハリス牧師夫人の働きかけで創設された。新渡戸と内村鑑三は札幌農学校在学中の明治10年(1877)ハリス牧師により受洗している。また七飯町は新渡戸の祖父傳の所縁の地でもある。遺愛建学の三大精神は信仰、犠牲、奉仕である。
昭和6年5月遺愛女学校(函館)で『恩』と題して講話。
「・・・・なまじっか学問があると理屈をいふ。自分の利になる事ばかり言ふ。だから世間は物騒で自分勝手な事ばかり云ふ。これは恩を忘れてゐるのである。恩の字は因(モト)のこころである。・・・」「・・・自分の便利ばかりを計るのではなく自分が便利な生活ができるにつけ誰か犠牲になって居る人がある事を考へねばならぬ。・・・・」 “盛りをば見る人多し散る花の あとを追ふこそ情なりけり”と詠んでいる。

スミス女学校
明治20年(1887)アメリカ婦人宣教師サラ・C・スミスが創設、現北星学園。

普連土学園
明治20年(1887)この2年前、新渡戸と内村鑑三が「日本に於ける女子教育振興の必要性」を米国モリス邸で説いており、それがきっかけで津田仙(梅子の父)の協力で創設。

北鳴学校
明治24年(1891)北炭社長堀基の篤志で創設、請われて教頭となる。札幌農学校の予備校的性格を有し、公立ができ三年半で閉校。

日本女子大学
明治34年(1901)成瀬仁蔵が創立、新渡戸は成瀬との交友から有形無形に援護、戦後に学長になった上代タノを若いときから育てている。

東京女子大学
大正7年(1918)新渡戸が初代学長、副学長は長尾半平、学監は安井 てつ。犠牲と奉仕の精神を強調。

女子経済専門学校
昭和3年(1928)札幌農学校j時代の教え子森本厚吉が創設。新渡戸は懇望され校長に就任。「親心」で女子生徒達を育てる方針でのぞんだ。現新渡戸文化学園
人格主義と愛の教育
新渡戸稲造博士が女子経済専門学校(通称は経専、現:新渡戸文化学園)校長に就任した際、次のように語っています。
「尊い人の魂を自由に伸ばさせるには、愛の教育を基調とせねばならぬ。経専は親心をもって教える教師による愛の学校でなければならぬ。生徒をかわいがることによって、叱る以上の効果を上げねばならぬ」
この言葉を受け継ぎ、新渡戸文化学園は、生徒一人ひとりの人格を尊重した愛の教育を実践しています。
新渡戸学園

河井 道
明治10年(1877)~昭和28年(1953)伊勢の神職の家系、没落し北海道に移住。
スミス女学校在校生時新渡戸の知遇を得て留学、帰国後に津田梅子の女子英学塾(津田塾大学)で教えている。日本のYMCA組織化に貢献もしている。恵泉女学園を昭和4年(1929)創立し新渡戸に多額の援助を受け生涯に亘り交流している。新渡戸は『・・・キリスト教の教えを説くことで、女性の地位向上が可能である可能性を教示しているのである。』『・・・・東京女子大学の創設において、キリスト主義の学校は、キリスト教による人格主義の教育がなされるのであって、キリスト教の伝道をして信者にすることを目的にする学校でははいとし、この趣旨を教育方針の根幹としたのである。・・・』この影響を通して「人格教育」[園芸(労作)教育]「平和(国際)教育」の三本を柱に恵泉女学園を創設したのです。

台湾協会学校
明治30年(1900)桂太郎が創設、後藤新平が総長、新渡戸が学監、明治33年半ばから大正11年まで関係している。現拓殖大学
第一高等学校
明治39年(1906)時の文部大臣牧野伸顕(大久保利通の次男、10歳で岩倉使節団に加わっている国際経験豊かな西洋的教養人)の推薦で校長。大正2年(1913)辞任。矢内原忠雄、森戸辰男、前田多門、石井満、鶴見俊輔、田中道治、田中耕太郎、高木八尺、川西実三らが敬服。彼等は敗戦後の日本に影響を与えている。

校長就任と同時に京都帝国大学教授を辞任し、東京帝国大学農科大学教授を兼任。活力・知性・品性に加えて「社交性」を強調した。一年生全員を対象に週一回の倫理講義を行い、全生徒の有志を対象とした科外講義や特別講義を行った。『一般教養は教育の遠心力であり、専門訓練は求心力である。両者の正しい調和のとれた協力によって、人は良く均衡のとれた精神形成を期待できるのだ』と。

徳富蘆花の講演「謀叛論」の問題(明治44年・1911)前年の幸徳秋水らの大逆事件を寮弁論部講演会でとりあげた。新渡戸校長は出席していなかったが、一貫して自ら全責任を負う事によって当局の厳しい追及から学生を守った。

「日本国民」(明治45年・1912)は日米交換教授として、明治44年8月から大正元年9月の間米国で166回にわたり講演をし「太平洋のかけ橋」たらんとする。大正2年4月辞任(1913)、退任し去る晩餐会は感謝と惜別の情に溢れたものであったと松隅俊子の著書にある。

地方学
「新渡戸博士とRuriology」東畑精一「現代に生きる新渡戸稲造」昭和63年(1988)
Ruris(田舎)とLogos(学問)
明治以来いわゆる過剰人口に悩み抜いてきたわが農村が、逆に人口減少に会し、農民の後継者難が問題となっている激変である。 『回顧すれば明治維新、国是一変して粋を英仏に汲み莘を米国に咀み、従来の制度を種々刷新して或は村落の分合を行ひ自治制を布けるが如き、因って以って従来の田舎社会を全然壊敗し了らしめ、我が地方学の研究に一大錯雑を来に至りぬ』

※現在の≪限界集落問題≫を明治31年(1898)100年以上前『農業本論』で予見していたのです。

貴農論
「北の農」をたずねて:原 洋之介
「商工と農業との均衡のとれた発展こそが、国民経済としての日本経済の健全な姿である」というこの認識は、今日にもそのまま当てはまる命題である。
明治40年(1907)「随想録」で『「都会は国民の体力を弱くする恐れがあるのに反して、田舎は国民の体力を強め、元気を養うがゆえに、教育にも効力があるから、なるべく青年をして地方土着の思想を起こさしめば、国力発展の上に多大に効験が顕われるだろう。」それ故に、「田舎に関係ある農業なり、制度なり、その他百般の事につきて言えるものにて、それを学術的に研究してみる田舎学」である「地方の研究」が必要である』そして明治43年柳田國男と郷土会を創設する。しかし柳田國男は農政論から民俗学へ転換する。官僚としての挫折があったと原氏は述べている。

※TPP問題からしても貴農論の複権が今こそ問われなければならないであろう。
(菅原10/29)


「永遠の青年」-新渡戸稲造

賀川 豊彦

大きかったね
その輪廓は ―
すっきりしてゐたね
その肌合いは
武士道に
世界魂を注入した
その気魂は
日本の島に容れるのは
少し大き過ぎたね
年と共に
若くなる
あの気持ちのよい
霊魂 ―
どこから ああした
若若しさが湧くのだろうかと
いつも感心させられた
永遠の青年!
解かりの善い賢人
博識なる善人
弱者にも 貴人にも
何等隔てなき尊者
明徹朗麗
花辯の如き魂であったよ
新渡戸稲造は ―
私は 日本の七賢人は
誰かと聞かれたら
新渡戸稲造を先づ
第一にあげたであらう ―
誠に彼はギリシャの
ターレスにも ソロモンにも
劣らざる賢人であったよ
凡俗を抜いて ―
然し この賢人は
至高の純愛の持主であったよ
彼ニトベは ー
祖父の血を継いで
開拓精神に生き
国境を越えて
人間を愛し得る
宇宙精神の持主であったよ
おお 尊き存在!
彼が
曾子 荀子 孟子に比較しても
決して ひけ目のない 霊魂であった
ことを 私は考えてゐる
彼は
聖賢に属する存在であった
彼の名は 永遠に薫る
彼は 魂の彫刻者として
自己の姿を
不朽の霊に刻んだよ ―
お ― 優れたる彫刻者
お ― エキセルショア!
巨大なる世界人 - イナゾウ・ニトベ!
年経つと共に
彼の名は
花園の薫りの如く
日本に愛せられる ― であろう
徳愛の人 ― 日本人 ―
お ―  日本人中の日本人!

国際連盟事務次長時代
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小学校と遠友夜学校時代

 支那事変が始まった昭和12年7月7日は、私は札幌市立豊水小学校の2年生で担任は毛内操先生であった。1年に入学したときは梅沢謙三先生であったが、3年から6年の卒業まで中川大三先生が担任になる。中川先生は卒業まで担任され今もご健在で毎年のクラス会には出席されている。

 小学生時代の私は友達つき合いが下手で、野球が出来なく、ゲームや遊びの仲間に入れなかった。國定忠治ごっこでは「ご用。ご用ッ」と捕らわれ役になり。
あるとき石炭小屋に入れられたまま、次の休み時間まで出られなかったこともある。
 勉強も不得手で宿題はあまりやった記憶はない。作文も唱歌も図画も不得手だった。あまり得意なものは無かった。
 またヽ近所に何時も遅刻する級友がいて、誘う役目を与えられたが、彼はなかなか時間通り出てこない。結局遅れて私も同罪で立たされる羽目になったりした。
 しかし。仲の良かった友達もいて思い出す事も数々ある。なかでも自分の死期を予言して、その通り逝った辻精三君とは運命的交流をするようになるが、この事は別の機会に取り上げたい。

 数年前の小学校の卒業50年のクラス会のとき、級友から「君は変わっているね」といわれて、反射的に「そうではないよ」と答えたが、考えてみれば変人か否かは、他人が決めるもので。自分が決めるものでなかった。
 かなり以前に、母校の職員室で私の小学校4年生ころの今でいう指導要録を見たことがあったが「友達の悪口をいうので嫌われる」とあった。私は他人の悪口を言ったつもりはないが言い方が適当でなく、批判が悪口に聞こえたのだろう。
 今もそれに類したことが起きることがある。行動も突飛に見える事があるので考え合わせてみると私は変人の部類にいれられても仕方がないのかも知れないと思うようになった。

 私の父は小学校時代の成績が良かったが、家計が苦しかったので小学校を卒業して。すぐ家業につかざるを得なかった。わが家は豊かでなかったが父は私に自分の轍を踏ませたくなかったのか「中学に進学しなさい」といった。私もゆかりある北海中学に行こうと思い、クラスの進学志望者のグループに入った。
 当時クラスの人数は60数名で、そのうち進学志望者は20数名であった。ところが私の成績はグループのピリか。ピリから2番目くらいであった。
 父は「この成績では進学は無理」と言われて私は進学を断念せざるを得なくなった。その結果私は。昼間は家業の鋸の目立ての見習いをしながら、夜間は青年学校に通わなければならなくなった。

 卒業間近になってからクラスでは各自の進路をみんなの前で発表することになった。私は「青年学校に行きます」といったら先生は「青年学校も、学校だからな」と慰めてくれた。当時は、支那事変のさなかであって、進学しない者は軍事教練のため夜間の青年学校に通うのが義務であった。

 しかし、私は青年学校に行かず新渡戸稲造先生創設の遠友夜学校中等部に入学した。遠友夜学校は普通教育を受けられなかった者のために門戸を開いていたのだが、その頃は中等部も設けられていたからである。 直接の理由は、母が遠友夜学校に通って勉強し、職業婦人になって拓殖銀行の電話交換手になった話を聞いていたことと。遠友夜学校がわが家から100メートルも離れていないところにあって、通いやすかったからだ。
また、小学校の頃から夜学校の教室に出入りして。男生徒の自治会であるリンコルン会主催の弁論大会の練習風景を見たり、日中は使われてないピンポン台で友達と遊ばせて貰ったりして遠友夜学校に親近感があつたからでもある。
 それに一番の利点は無試験で入学できることであった。
 先生は北大生で無報駲の奉仕であったが学校の寮に住み、生徒とは授業以外の交流もあった。そして遠友夜学校は当時珍しい男女共学であった。

 私が、昼間は家業の鋸目立て見習い、夜は遠友夜学校という生活を始めてからまもなく、青年学校の福島先生が見えて「軍事教練の時間だけでも出席しなさい」といった。その後も、何回か見えてにこにこしながら登校を促されたが、遠友夜学校が面白かったのでとうとう一回も青年学校に行かなかった。
 抵抗していたわけでない。夜学校が楽しかったからである。町内の集いの時などで出席した福島先生と顔をあわせると「山崎君は私の生徒だ」と他の人に紹介してくれたりした。それなのに私は一回も青年学校に行かなかった。今になってみると福島先生に申し訳ないことをしたと思う。

 私が入ったのは遠友夜学校中等部1年だが、級長は25才の奈良岡健児さんという人であった。学科はなんとかついて行けたし、先生の呼びかけでキャンプなどにも参加したり、時間外の交流も勉強になった。
 ところが。10月になって祖母が「せめて高等小学校に入れなさい」と父に強く勧めたことから。札幌市立第2国民学校1年に編入となり、ようやく正常なコース?に乗る事になった。 遠友夜学校時代は、短期間ながら私にとって意義ある経験であった。
山﨑夫妻

平成7年8月15日
山崎健作

「父が学んだ遠友夜学校」と私の想い

私の父は、大正12年の生まれ、今生きていると今年で91歳になります。富良野の空知川のほとりの貧しい農家の三男として誕生しました。小学校卒業後、14歳になって札幌の叔父を尋ねてトランク一つで故郷を後にしました。叔父は札幌の中央区南3条東3丁目で丸欽佐藤商店という古銅鉄店を営んでおりました。すぐに丁稚奉公の毎日が始まりました。

しかし、仕事もしなければならないが、もっと勉強をしたいと向学心に燃えていた父でした。ところがその想いは、学問より仕事を重視していた店主には届かなかったようです。たまたま、お店のすぐ近くに(南4東4丁目で歩いても1,2分)遠友夜学校があったので、そこで、父は「仕事を終わった後に夜学に通わせてほしい」と度重ねて懇願し、店主も渋々通学を許可したのでした。

店の勤務は早朝から始まり終業時間もなく、夜学校への登校も意のごとくならず、顔も洗わず、近くのオヤキ屋さんのお世話になりながらの厳しい通学でした。しかしながら、学校では多くの事を学び、たくさんの校友ができ、みんなすばらしい人たちであり勉強が好きで通っていたので、誰ひとりとして勉強をさぼって遊びに走るなどおよそ考えられない事であったと言います。

生前父から遠友夜学校の事は何回か直接聞いた事はありましたが、今日までそれほど大きな関心を持つに至りませんでした。そのような中でたまたま勤労青少年レッツ中央に行く機会があり、その中に遠友夜学校の資料展示室があったので、その中を何気なく見学していた時に、卒業生のリストの中に父の名前を見つけたのでした。私にとっては、大きな感動でした。「ああ…やっぱり、父は遠友夜学校に行ってたんだ!」と。

父の生前の中小企業の経営者としての姿に触発され、心より尊敬をしておりました。父は、生前は発寒鉄工団地や石狩機械金属工業団地の副理事長やその他多くの公職をしており、多くの悩める中小企業の良き相談相手となっておりました。場合によっては、保証人や資金の援助なども実際に行い倒産寸前の中小企業を救済したことも少なからずあったようです。小学校しか出ていない父がどうしてそのようなヒューマニズムやボランティア精神や利他の精神をどこで学んできたのか、わかりませんでした。

こうした中で、「洋装の山崎」さんのお店で開催された「新渡戸稲造生誕百五十周年記念講演会」をご縁あって聞き、また遠友夜学校の事を少しずつ知るにつれ、ひょっとしたら遠友夜学校での学びの中から、そういう精神が醸成されたのではと思うようになりました。そう考えると、もっともっと遠友夜学校と新渡戸稲造の事を知りたいと当時に、それを通して企業の正しいあり方、利他の精神やボランティア精神そして人を大切にする経営を学んでいきたいと思ったのです。

ところで、私はある中小企業の経営者の勉強会に参加して久しいのですが、ここでは全道で1100社あまりの中小企業が一緒に経営を学んでおります。会員の中には、従業員がいないとか、いても一人とか二人という会社もたくさんあります。北海道の経済状況を見ると、経営が順風満帆に行っているという会社は全体の一握りで、多くの会社は今月の資金繰りにも支障を来しかねないところが多いようです。経営がうまくいかない原因は多々考えられると思いますが、例えば一人社長の会社では、自分が動かなければ何も始まらないので、人の採用もましてや社員教育などには考えも及ばないという事も考えられます。

一人のできる範囲はどうしても限られるので、会社の成長も限界が来るのはとても早いかもしれません。人の採用と社員教育はとても重要と申せましょう。但し、従業員の教育の前にもっと大切なのは経営者自身の勉強と思います。その時にどんなに小さな会社であっても、「世の為、人のため」という大きな志を持って経営に当たる事が、これからの経営に必要不可欠と思うのです。

東地区には、昔から多くの製造業が集積していました。ここに新渡戸稲造は遠友夜学校を立てて、子供の教育をしたのです。そして、私たちが住むこの札幌には、100年も前からまだ他の地域にはないボランティア精神やヒューマニズムの精神が醸成されていたのです。中小企業の経営で悩みがあればここに来て、元気をもらってまた明日からのエネルギーとして充電できる、全国でたった一つの特別な場所として捉えてみてはいかがでしょうか。

しかしながら、今は遠友夜学校の地は荒地と化し、新渡戸博士の銅像が一人寂しくたたずむペンペン草の追い繁る誰ひとりとして見向く人のないような地となっております。何と言う事でしょう。
遠友夜学校の地に赴き、新渡戸先生の揮毫「学問より実行」を見て、生徒の書いたノートを読み、また小さな固い木の机に座って、時の子供たちが将来を夢見て大きな志を育ててきた事を回想して、昔の生徒と先生から大きな元気と勇気をもらえる場があるとしたら、なんと素晴らしいことではないでしょうか。

郷土の誇り、遠友夜学校。
もしこの地に再興すれば、市民にとっても企業にとっても唯一無二のかけがえのない場所になるはずだ、と私は思うのです。
佐藤幹事長

平成26年7月28日
佐藤邦明

有島武朗の手紙二通と新渡戸稲造の手紙

史料の発掘
読売新聞・有島の手紙A

読売新聞・有島の手紙
Thomas Carlyle
衣服哲学

札幌市への「遠友再興塾準備会」の陳情経緯

26年4月29日
 「新渡戸稲造と遠友夜学校を考える会」の記念館建設の動きに伴い、新渡戸博士の精神を継承し、まちづくりに貢献したいと、山崎健作(当会代表・元遠友夜学校在校生)提唱の“真実一路”をモットーに「遠友再興塾準備委員会」を結成。当面の活動として「遠友夜学校」の周知を高める一環とし講演会を企画(8月12日)。
26年7月05日
 教育委員会は市が管理する「遠友夜学校」関連資料を北大へ寄贈するとの発表と、合わせてそれらの展示・保管している「札幌資料館」内にある「遠友夜学校記念室」は6日で閉鎖されると新聞報道される。
26年7月17日
 当会としては北大への寄贈を止めるべく陳情書提出を決定。
26年7月25日
 「札幌市民の郷土の誇り、「遠友夜学校」の貴重な財産である史料を護り、市民による市民のための活用を図ることを求める陳情」の陳情書を提出し受理される。
26年7月29日
 議会事務局より電話にて『資料は既に引き渡しが完了しているので陳情はそぐわない』との回答を受ける。
26年8月01日
 電話にて『そもそも陳情は「そぐわないから」提出するもの』と再提出を連絡する。
26年8月12日
 「札幌市民の郷土の誇り、「遠友夜学校」の貴重な財産である史料を護り、市民による市民のための活用を図ることを求める陳情」の陳情書を再提出する。
  講演会にて「遠友夜学校関連史料無償譲渡の白紙撤回と記念顕彰の施設を求める」署名活動の呼びかけ予告を行う。
26年8月29日
  議会事務局より提出陳情書の文言の指導を受ける。
26年9月11日
  議会事務局より電話にて『9月24日14時より市役所16階第一特別会議室で文教委員会開催』の連絡を受ける。
  全会派の文教委員に面会・陳情説明する。(但し、その中の二市議には面会出来ず)
26年9月24日
  文教委員会陳情審議会にて当会の佐藤事務局長・菅原委員が陳情説明する。
  審議裁決は『継続審議』となる。

尚、当会としては今後とも当会は「遠友夜学校関連史料無償譲渡の白紙撤回と記念顕彰の施設を求める」べく講演会・署名活動等を通じて広く市民に「新渡戸博士の顕彰」と「札幌市文化財のあり方」を働きかける方針です。
(文責:遠友再興塾準備会・菅原10/25)

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札幌市と遠友夜学校との同意書

遠友夜学校と札幌市の約束
同意書1
同意書2
同意書3
同意書4
同意書5
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