「遠友夜学校」に学ぶ”遠友再興塾”
新渡戸稲造夫妻が創設した遠友学校の精神を学ぶ

プロフィール

Author:遠友再興塾
札幌の誇り、教育の基、文化の香り、遠友夜学校の再興を目指す”遠友再興塾”
<遠友再興塾・事務局>
〒060-0053札幌市中央区南3条東3丁目マルキン本社ビル5F
〇連絡先
Fax:011-894-5530
mail:inazo@utopia.ocn.ne.jp 
📱:090-2699-4392
担当:木村良三(イナゾーアーキテクツ)



最新記事



最新コメント



月別アーカイブ



カテゴリ



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QR



スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


訃報

30日、山崎代表の奥様が、お亡くなりになりました。
通夜、告別式は、下記の通り執り行われるとの事をお知らせすると共に謹んでご冥福をお祈りいたします。

通 夜:5月31日(日) 18時から
告別式:6月1日(月) 10時から
場 所:妙典寺
住 所:札幌市中央区南16条西7丁目2-21
TEL:011-531-6655

遠友再興塾


スポンサーサイト

青空会のまちづくり運動の経過

 札幌青空子供会は、昭和二十三年に「子供に笑顔を」と発足しました。子供に良い環境を作るためです。
地区ごとに子供のグループを作り、それぞれ活動を始めたのです。
グループリーダーは高校生と中学生です。後に大学生や主婦もリーダーになりました。
グループのプログラムは、グループごとにリーダーの興味と関心によって決めました。
一般的なプログラムは、映画を上映したり、みんなで歌う会を開いたり、フオークダンスを踊ったり、歩け歩けの会を行いました。時には講演会や指導者研修会を開いたり、成人式も行いました。
リーダーがしたいと思う様々な活動をしたものです。 

 昭和二十四年の五月五日のこどもの日のことです、後に青空会の会長になる岡田正雄さんから十日後の五月十五日に市民会館ホールを借りているが使わなくなった。青空会で使わないか」と言われました。
高校生リーダーの小野栄一さんと中学生リーダーの松木洋三さんに相談すると「是非やりましょう」と言う。
それで早速青空会の総力を挙げて最初の大きな会場でのニコニコ子供大会を開くことになりました。
 プログラムは、各単位子供会を小野さんと仔鹿子供会の小学校三年生中村春子さんが訪れるバラエテイショーです。
小野さんは戦後札幌で初めて作った人形劇のガラガラガッチャン」と一緒に出演しました。
入場料は二円九十九銭でした。三円から税金が掛かったのです。
結局、午前に壱千名、午後も壱千名の参加者があって大成功でした。
十日間の準備期間しかなくても若い彼らが充分やり遂げたのです。
 その子供大会は、札幌市教育委員会が開催する様になるまで毎年開催を続けました。

当時の日本は、大東亜戦争に敗れてアメリカに占領されていました。札幌にも復員者や引揚者が帰還していて、住宅、衣料、食料が欠乏し、みんな貧しい希望の無い生活でした。
 私は、昭和十八年夏に「日本の自衛と、アジアのために」と思い、陸軍少年飛行兵に志願しました。
弱かった私が幸いに合格し、戦闘機操縦者を養成する太刀洗陸軍飛行学校に入学しました。
昭和十九年の夏には,台湾の第八教育飛行隊に転属し、暮れには沖縄のアメリカ艦隊に爆弾を抱いて先んじて突入する特攻要員を命じられました。十七歳でした。
 しかし運命が変わり、戦争が終わってから翌年春に復員しました。
それ以来生き残った後ろめたさに深刻に悩みました。しかし、青空子供会を結成し子供の為の活動を始めてから、生きて行く意味を見いだしました。ようやく救われたのです。

 その活動は、昭和四十年頃からの社会状況の変化にともない、子供中心の活動から、働く青少年の活動や、亜細亜留学生、高齢者、の事などに幅を拡げました。
 それでも子供のための集会はたびたび開きましたが、北海道新生活運動委員会やライオンズクラブなどの様々なグループと連携して行いました。

その頃、会の名称を札幌青空会と改称しましたが「会員の成長発達のために」という会の目的は変わりません。
会の特質とも言うべき「リーダーはすべて無報酬の奉仕活動」という原則も変わりません。
外部からの講師や協力者にも無報酬でお願いしていました。
 リーダーによる青年組織も作りました。成人式の講演会参加者が入会して来たからです。アメリカ人の会員の命名で「トモロウクラブ」と名ずけられ、私が代表になり札幌市青年団体連絡協議会に加入しました。視野がぐっと広くなりました。

 この活動が永年続くことになったのは、昭和二十三年の最初の「お話と紙芝居の会」に出演した高校生リーダー小野栄一さんと中学生リーダー松木洋三さんの貢献があったからです。小野さんは高校演劇でベニスの商人のシャイロックを演じて非常に評価され、松木さんは「新制中学」という雑誌に文章を書いて評判が良かったので、青空会発足のきっかけになった子供大会に出演を依頼したのです。

 小野さんは、最初に結成された東地区の「仔鹿子供会」のグループリーダーにもなり、妹の中学生あや子さんが合唱のリーダーでした。週に一回私宅で子供会を開いたのです。
  視察に来られたアメリカの北海道軍政部のミス、モリスとミセス、メットカフに「小野さんの英語の発音が良い」と言われ、あや子さんが合唱の途中で「皆さんは休んで下さい。私がオールドブラックジョーを歌います」と言って歌いましたが、アメリカ人の女性にほめられたことを思い出します。
 小野さんは声帯模写もしました。美空ひばりの声帯模写を「本人に褒められた」とも聞きましたが、彼は東京に出てテレビのそっくりショーの司会者になったのです。
 たびたび札幌に帰って無報酬の出演をしたり、平成十年に道新ホールの青空会創立五十周年記念の集会では娘さんと出演して七百名の観客を沸かせて呉れました。

 松木さんは、自ら自宅に幌北地区の「日の出子供会」を作り、藤高女生の芳賀和子さんに合唱のリーダーをお願いしました。最初の大きなつどいに私も呼ばれましたが、会場は近くの北警察署の会議室でした。
 臨席した堀内署長が「私は警察の歌を歌います」と起立して歌ったのが印象に残っています。
北警察署は中学生の松木さんに会議室を貸して呉れたのです。
 松木さんの活動は数年でしたが、後に菊水地区で中学生リーダーとしてクロバー会を作り十数年踊りの指導を続け、大いなる成果を挙げた古川栄子さんに匹敵する成果を挙げていました。松木さんは北海道大学の学生のとき青空新聞に日の出子供会の思い出を書いてくれましたが皆さんに読んで頂きたい内容です。

 北大を卒業して運輸省に就職した松木洋三さんは、若い時に北海道海運局長と北海道陸運局長に続けて就任し、国鉄の民営化の時は貨物の会社の専務に転じました。
 その後彼の寄付金で念願のアジア留学生の根室市訪問を再開することが出来ました。発足当初の二人のリーダーが、上京しても変わらぬ関心をもって札幌の会員を支援してくれたことが、青空会が今日まで続けられた影の力になったと言えましょう。

 実は、今から二十年前ですが、北海道大学で札幌遠友夜学校創立百年記念事業が行われました。
遠友夜学校は新渡戸稲造博士が創立した貧しい子弟のための学校です。男女共学でした。
札幌農学校(現北海道大学)の学生が無報酬の教師になって奉仕をしていました。
 私がその記念事業の講演を聞いて気が付いたのは、青空会の活動が遠友夜学校の伝統を受け継いでいたことです。 リーダーは無報酬の奉仕ですし、レクリェイション活動や、高校生の弁論大会などを行い、リーダーとメンバーの絆の深いところもそっくりでした。昭和十五年に私が遠友夜学校に六カ月間在学した経験を自然に引き継いでいたのです。

 戦後の日本は文明、文化が発達し、信じられないほどの豊かな国になりました。しかし、一面から見ると
日本の精神的な美しき伝統を見失っていたとも言えます。
そこで青空会は数年前から遠友夜学校の精神を学んで、今何が大切かを受け止めようと考えました。

 一昨々年暮れに、北大名誉教授藤田正一先生による「新渡戸稲造と遠友夜学校」の講演会を青空会とアジア招聘(主宰杉岡昭子)の主催で開きましたが、そのときの聴衆有志が「新渡戸稲造と遠友夜学校を考える会」(会長山田光司)を結成し、募金して遠友夜学校の跡地に遠友夜学校の記念館を建設しよう運動を始めました。

 それに先立つ一昨々年六月に、青空会はピアノがある近くの創成東病院で「みんなで歌う会」を開催しました。
その時の世話人が「創成東クラブ」(会長山本美紀子)を矢木常務のご協力もあり結成されました。今も毎月「みんなで歌う会」を開催しています。
 更に昨年は、青空会の戦争体験を語る会に参加した人が「平和と戦争を考える会」(会長菅原勝明)を結成し、戦争体験を語りあうようになりました。

 あの大東亜戦争は、三百万人以上の犠牲者が出ましたが、それよって今日の日本があります。
また有色人種の人びとが、独立した国を作ることが出来ました。
 
 昭和の天皇陛下は賛成されなかった戦争ですが、日本は戦わざるを得なかった戦争と言えます。
開戦前のアメリカのハル国務長官のハルノートは、少年であった私にも独立国として到底受け入れられないと
思えるほどの厳しい内容でした。
 しかし、これからは絶対戦争に巻き込まれてはいけません。現代の戦争は非戦闘員を巻き込む戦争に成ったからです。青空会はその為にしばしば戦争体験を語る会を開きました。

 また青空会は、昨年の八月十二日に札幌時計台を会場に藤田正一先生に再びお願いしまして「郷土の誇り札幌遠友夜学校と新渡戸稲造」のテーマで講演会を開催しました。
遠友夜学校の精神を受継ぐ「遠友再興塾」を結成するきっかけにするためです。年齢、性別を問はないことを原則にして、まちづくり運動を進める実践グループを作るのです。
 遠友再興塾の具体的な奨め方は皆さんのご意見も頂いて決めて行きますが、遠友夜学校記念館の建設の方法は、考える会のように募金して自主建設では無く、原田市長が約束されたように札幌市に建設をお願いするのです。
北大に無償譲渡された遠友夜学校の資料の返還請求をお願いするのです。
遠友夜学校のことをご存じない方が多いので、方法を尽くして周知を図らなければなりません。

 国家の平和と繁栄は、国民の幸せのために不可欠です。私どもがまちづくりにいそしめば住む町や村の発展になり、さらに国家の平和と繁栄につながります。国の運命と国民一人一人の運命は密接不可分なのです。

まちづくり運動を進めようとすると「それは町内会がすることでしょう」と良く言われます。
それもそうですが、町内会が学校の教室での正規の授業なら、まちづくり運動は部活とも言えます。
部活は正規の授業に支障を与えませんし、学級や学年に限定されない幅の広さがあって自由闊達に活動出来ます。
そう考えて、私どもはまちづくり運動を推進したいのです。実際の運営に当たっては、新渡戸稲造博士の考えかたを学び、遠友夜学校の行き方を受け継いで、日本人としてどうするべきかと考えて進めます。
 本を讀むこと、情報を求めること、デイスカッションをすること、などを重視します。
 意見が分かれたら、原則として多数決を尊重します。それが民主主義です。ただ私どもは意見が違う人を
敵と思わず、論議して納得できる道を探します。

 これからの厳しい時代は、新しいメンバーによる新しい運動が必要です。それで青空会は友再興塾の結成を
提案しているのです。
大東亜戦争のとき、各地で戦死した兵士も、特攻で亡くなった若者も、爆撃や海の遭難で犠牲になった国民も、この考えに賛成して呉れると思います                       

札幌青空会 代表幹事 山﨑健作
平成27年3月26日


≪独立飛行第49中隊誠特別攻撃隊員の手記≫掲載予告
15歳で陸軍少年飛行兵に志願、昭和18年陸軍少年飛行兵に合格、太刀洗陸軍飛行学校甘木生徒隊に入隊(陸軍少年飛行兵第15期生)、昭和19年7月台湾の第八教育隊に転属、昭和20年独立飛行第49中隊に配属され台湾の台北南飛行場で終戦を迎えられた山﨑健作さん(昭和2年生れ)が平成19年に書き留められた未公開の文『軍国少年の「台湾特攻」物語』を当ブログで公開の承諾を頂きましたので近々記載致します。
作家や戦史家、学者の物ではなく、ごく普通の少年が志願し、その体験と戦後の世情の移ろいとの葛藤を市井の人の目線で書かれております。
又、お母様も新渡戸稲造博士の遠友夜学校に学ばれており、ご自身も短期間ではありますが入学しておられます。
遠友夜学校の校訓「学問より実行」の精神とともに、戦後は報徳の仕法を実践されてきた日本人の記録でもあります。
山﨑台北昭和20年4月3日台湾の松山飛行場の誠特別攻撃隊出撃
上記動画は昭和20年4月3日台湾の松山飛行場から出発した、誠特別攻撃隊を映した日本ニュース(第249号)の1コマで戦闘帽が山崎さんです。(記:菅原)
・・・・・・・
 終戦、昭和20年8月15日独立飛行第49中隊の全員は徒手帯剣で整列してギラギラ輝く太陽の下で玉音放送を拝聴しました。その時の心境は簡単に説明できません。
 数日前から豪州(オーストラリア)の日本語放送で「戦争は終りました」というのを聞いていましたから「あれはデマではなく、やはり本当であったか」との思いで敗戦を理解できましたが、理解できない方が普通であったのではないでしょうか。
 中隊長の脇本中尉(空中勤務者上位階級者は全員戦死の為、整備班長から中隊長に)からは特に言葉も無かったですが衛生班の井関曹長から「お願いがあります、飛行機で自決する時は陸上ではなく,海上でお願いします」と申しました、「何故だ」と誰かがいいました。「陸上で自決されるとその処理は衛生班の役割ですから困ります。海上なら問題ありません」との説明でした。「そうか、わかった」という感じで聞いていました。私には自決者を出さない効果があったように思えました。自決があっても不思議ではない雰囲気があったのです。
 15日の夕刻、台北南飛行場にB29が1機低空で飛来し数回旋回して去りました。その大きさに驚きました。敵愾心も恐怖心もなく好奇心で眺めていたのです。虚脱状態であったのかもしれません。少年飛行兵4期生の整備の小林准尉が「これからの日本は米ソの間で上手にやらねばならん」と日本の復興に向けての覚悟を我々に促したのでした。
 脇本中隊長自決の前日に褒賞として台北出張を命じられ台北市の’だいどうていを訪ねました。そこは軍人の立ち入り禁止の危険地帯になっていましたが、台湾人が日本人に危害を加えるわけが無いと思っていたので平気で訪問しました。そこで読んだ新聞で脇本さんの自決を知りました。中隊長以外に自決者はいませんでした。
 私は昭和24年の帰国予定になっていましたがアメリカが船舶を提供してくれたため21年2月24日に7千トンの貨物船で基隆港を出港することができました。(談:山崎)
[続きを読む]



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。