「遠友夜学校」に学ぶ”遠友再興塾”
新渡戸稲造夫妻が創設した遠友学校の精神を学ぶ

プロフィール

Author:遠友再興塾
札幌の誇り、教育の基、文化の香り、遠友夜学校の再興を目指す”遠友再興塾”
<遠友再興塾・事務局>
〒060-0053札幌市中央区南3条東3丁目マルキン本社ビル5F
〇連絡先
Fax:011-894-5530
mail:inazo@utopia.ocn.ne.jp 
📱:090-2699-4392
担当:木村良三(イナゾーアーキテクツ)



最新記事



最新コメント



月別アーカイブ



カテゴリ



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QR



スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


教育勅語

教育勅語に対する見方

 道徳教育を重視した新渡戸は、教育勅語についても率直な見解を述べ、特にその扱いにおける国家主義的な傾向を批判している。

 教育勅語で強調されているのは、孝行、友愛、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学習業、知能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇奉公、という十二の徳目である。これを武士道の徳目と比べると、内容的にはかなり共通するところが多い。実際、新渡戸自身は、教育勅語には武士道で教え込まれたすべてが含まれているだけでなく、さらによいことには、それらが要約した形で表現されていたと考えていた。すなわち、終身教育の中核となった教育勅語について、その中身は高く評価していた。

 しかしその一方で、教育勅語にその教え方を誤ったために期待する効果を示すことができなかったと述べている。彼が問題にしたのは、本来普遍的性格をもっていたはずの教育勅語が、学校教育の中では「国民道徳」として国家という枠内に閉じ込められてしまったことであった。

 新渡戸のこうした見方は、それ以前から一貫して変わっていない。『日本国民』においても、「勅語の専ら国民的な注解だけでなく、もっと普遍的な注解が必要である」として、たとえば忠は主人に対する関係だけに終わってはいけないこと、誠実は隣人との対応に限れてはいけないこと、慈悲に地理的境界があってはならないことを指摘していた。

 教育勅語に発布四十年を迎えた1930(昭和5)年に『実業之日本』誌に寄稿した論文においても、「教育勅語ほど、人の義務を明に明記された文は世に少なかろうと思う。読めば読むほど味があり、かつまた恐れ多くも明治天皇の国民を指導せらるる大御心の一端が窺われる」と述べてこれを評価する一方で、その教え方が誤っていたために、期待する効果を示さなかったと論じている。彼が問題にしたのは、忠君愛国ばかりが強調されたために、子供たちは「目の前にある、そしてその日その日に行わねばならぬ義務の重きを知らずして、一旦綬急ある非常の時の義務を教えられる」ことであった。これまでのように教育勅語を朗読するだけでは、「陛下の大御心にかなったものとは思わない」と考えていたのである。

 「日本」においても新渡戸は、教育勅語は煥発されると多くの解説や注釈が登場し、それが「国民道徳」と呼ばれる基準を国民に提供することになったと述べる。その結果、教育勅語はもともと普遍的真理であったにもかかわらず、それに基づく修身教育は「国民道徳」として日本特有のものとなってしまったと批判したのである。それはちょうど、本来は普遍的な責務を説いた「十戒」の解説を意味するはずのものであったが、「キリスト教倫理」として狭い範囲に限定されるようになったのと同じことだとも説明している。

 誤解のないように言えば、新渡戸は忠君愛国を否定しているのではない。一高校長の時にも生徒たちに忠君愛国が大切なことを繰り返し説いているし、彼自身、天皇を深く尊崇し、祖国に対する忠誠心に溢れる愛国者であった。彼が批判したのは、忠君愛国そのものではなく、それ以外の徳目が軽視されたことである。目の前にある日常的な義務を果たすことをきちんと教えず、非常時の義勇奉公の義務ばかりを強調したところに問題があることを指摘しているのである。そしてそれが「国民道徳」という狭い範囲に限定されてしまったことを批判しているのである・

<草原克豪著:新渡戸稲造はなぜ「武士道」を書いたのか
       第四章「東洋と西洋は互いに相手から学ぶ必要がある」251~254頁より転載>


教育勅語


【教育勅語の口語文訳】
 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
~国民道徳協会訳文による~

スポンサーサイト

教師像

凡庸な教師は しゃべる。
良い教師は  説明する。
優れた教師は 示す。
偉大な教師は 心に火を付ける。


The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

ウイリアム・アーサー・ワード

作法と品性

金メダルの大野選手
 なぜ、大野は、パフォーマンスどころか、笑わなかったのだろう。
「相手がいますから。しっかりと冷静に礼をして降りようと」
 試合後、大野は言った。「柔道の素晴らしさ、美しさ、強さを伝えられたと思う」

北海高校のサムライ精神

 8月20日、夏の甲子園の準決勝第2試合で、北海が秀岳館(熊本)に4-3で競り勝ち、初の決勝進出を決めた。
北海の選手がホームベース付近に整列して校歌を歌い終わると、エース・大西健斗主将は、秀岳館が陣取った三塁側ベンチのほうに向き直り、深々と一礼してアルプススタンドへと駆けていった。 
試合終了後、大西主将に尋ねると、
「こうやって野球をやれているのは、相手あってのこと。相手がいなくては、試合はできない。敬意をもってプレーすることを心がけています。それは平川先生に教わったことで、チーム全体に浸透していると思います」

女子バドミントン「銅」の奥原希望選手の90度腰を曲げる美しいお辞儀
奥原選手

敗れたる者を安じ、たかぶる者を挫き、
平和の道を立つこと・・・・・これぞ汝が業。

 武士道(第五章 仁・惻隠の心)より

新年の決意

112年前の明治37年(1904)1月、新渡戸稲造の“新年の決意”

 新年はとりわけ、善い決断を新たにするにふさわしい時である。新年の決意が何度も行われ何度も破られるからとて、それを嘲り笑わないでほしい。

 親愛なる友よ、諸君の去年の決意が何の実をも結ばなかったとしても、気にしたもうな。その決意は、ここでは目にも見えず知られもしないけれど、どこかで、何かの実を結んでいることは確かだと信じたまえ。人間は何とも惨めな存在だから、今日決心して、明日それを破るのである。

 自ら決めた約束はいちばん破りやすいし、一度破った約束はいつまでも永く心に憶えられるものである。しかし、われわれはまた、今日壊ったものを明日再び建てなおそうと決意する力はある。決意を実行できなかったからとてそれを、決意を新たにしない言い訳にも支障にもしてはならない。

 人生行路で十回つまずくなら、十回起き上がりさえすればよい。偉人と凡人を分けるものはその決断ある性格である。

 若い友人諸君に言いたい。
 この元日に当たり、自ら、最善、最高、最強の決意を行いたまえ。
 その決意を紙に書き記したまえ。
 それをポケットに入れ携行したまえ。
 それを標準にして、諸君の日々の行状を測りたまえ。
 正直な決意はすべて、どんなに短くしか続かないとしても、道徳的性格に何らかの刻印を残す。
 
 嘲笑う者がやって来て、「ばかだなあ、お前はまえにも同じことをやったじゃないか。何千人もの人々が同じことをやってみたが、一人だってそれを十分やりとげたものはいないいんだぞ」と言うなら、こう言ってやりたまえ。
「サタンよ、わが後に退け、我が後に、過ぎ去った年月に。今、私を導くのは天使なのだー決然たる意志と清純な心をもった天使なのだ」

10月講演会、水崎講師レジメより


高校野球と新渡戸稲造

―朝日で「野球害毒論」―
 高校野球といえば、もはや日本の夏の風物詩。毎年楽しみにしている人も多いと思います。
高校球児たちの青年らしい爽やかなプレイに心打たれることもしばしばではないでしょうか。
そして、この全国高校野球選手権大会を主催しているのが朝日新聞社だということも有名です。
でも、実は明治時代、朝日新聞(東京朝日新聞)は「野球は青少年に害を及ぼす」として
通称「野球害毒論」というアンチ野球キャンペーンを行っていたことをご存じでしょうか。

 明治44(1911)年、東京朝日新聞紙上に、当時のエリート養成校であった第一高等学校校長の
新渡戸稲造による『野球と其害毒』という文章が掲載されました。曰く、野球は青少年に悪い
影響を及ぼし、学生にとって好ましくない活動である、と。その後、この連載は様々な論者によって
22回にわたって継続されることになります。
 その内容を見てみると、野球は相手をペテンにかける競技であるとか、「選手悉(ことごと)く不良少年」、
あるいは「脳に悪い影響を与える」というものまで様々でした。中には「選手の成績を手加減」する教授が
いる、という、どこかで聞いたことのあるような(?)批判もあります。

 一方、野球擁護派は毎日新聞(当時は東京日日新聞)や読売新聞、報知新聞の紙上で反論を行ったため、
これらの新聞と朝日新聞は野球を巡って一種の販売合戦となりました。当時の学生野球人気は非常に高く、
結果的に擁護派が大勢を占めることとなり、朝日新聞は部数を減らしていきます。これに危機感を抱いたのか、
朝日新聞は「野球は悪いという意見が多い」というアンケート結果を一方的に掲載し、唐突に野球害毒論を
終了してしまいます。

その後はみなさんも知っての通り、朝日新聞(当時の大阪朝日新聞)は現在の高校野球大会の
主催者となり(1915年)、「爽やかで好ましい野球と青年」というイメージの物語の作り手として、
180度の方向転換を果たしてゆくことになりました。

学生野球というアマチュア・スポーツの代表的な存在が、その黎明期からメディア(この場合は新聞)の
売り上げという商業的な側面と結びついていたことを物語る、意外な一例です。
(関東学院大学文学部比較文化学科准教授・岡田桂、2011.08.11)





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。